二十日ほどたったころだった、品のよい、見るからに高潔そうな老人が入牢してきた。不思議なこ
とに、私の足には鉄の鎖がつけられているのに、この老人には鎖がない。よほど地位のある人なのだ
ろうか。私は早速たずねた。
「おじさん。あなたにはどうして鎖がつけられないのですか」
「刑が確定したからだ。私は死刑だそうだよ。君と一緒に何日ぐらい居れるかな。ところで君はどう
して入牢しているのか、密輸でもしたのかね?ときどき中国人が密輸かコミュニストの疑いでつか
まっている」
私は自分のことには答えずに、反対に訊ねた。「なぜ死刑になるのですか、殺人でもしたのですか」
「ちがう、ちがう。私は皇帝の宗教断圧に反対して、叛乱を起こそうとしたのが、バレたのだよ」
老人は暇さえあれば、神の名を唱請したり、念請したりして、冥想三味を行なっている。いつも顔
には笑みをたたえてである。私は不思議な感にうたれた。
ある日、私はたずねた。
「おじさん、死刑になるというのにいつも朗かにしておれるのはどういうわけですか。僕は死刑に
はならないだろうけど、ここに入れられて、こうして捕われの生活をしているだけで不愉快で、苦痛
で、たまらない。あなたはあきらめたのですか、あきらめたら、そんなに朗かになれますか」
「あきらめないね、私は。私は私のすべてを神に任せきっている。だからいっさいの縁を神のお与え
であると思って感謝して受けとっている。すべての現象を素直に感謝して受けとっている。だから朗
かなのだろうよ」
信仰の真意などを理解していなかった私にとって、
この回答は奇異に感じられた。心からそうだなと思えたのは、ごく最近である。
「僕にはよくわかりませんよ。おじさんのおっしゃることが。そういう心境を信仰というのですか。
どうもわかりません。神とはいったいどんなものなのですか」
「神とは説明できないものだよ。神は、感じとった者にのみわかるもので、考えてわかるものではな
い。神は絶対的受け身の態度の者にのみ感じとれるものだ。この絶対的受け身の態度のことを、帰命
とか、無心とか、信仰とか、純一無雑の心境とかいうのだ。君は無の心、空の心になったことはある
かね」
「ますます僕にはわかりません。無の心とか空の心とはいったいどういうことですか。僕も宗教が好
きで、これまでにたびたび接した言葉ですが、どうしてもわかりません」
「そうだろう。君は考えているからわからないのだよ。考えるのではなく、気づくのだよ。気づくと
は、求める前にすでにすべてのものが与えられていることに気づくことであって、これは心が素直で
ないとできないね。すでに与えられていることに気づいたなら、神に求める何物もないことを知るだ
ろう。この心になったとき神に感謝する心、神に順応する心、祈念せずにはおれない心が自然に内か
らわき出してくる。これが信仰の状態だよ」
「話はわかりますが、わかりません。神を今少しわかりやすく説明して下さい。すでに与えられてい
ることに気づくといわれましたが、何を与えられているのですか。与えられるのはこれからではない
のですか」
「神は説明ではわからぬといっただろう。これは一生を通じて感じとるものだよ、強いて説明すれば
宇宙の法則ということだ。君は他の多くの人のように、神を勝手につくったり、神をたのむ対象とし
て考えているからわからないのだ。すべてに感謝する心の起きることが、神を知りうる門への第一歩
だ。君の心の中には好嫌損得の対立観念がうごめいているだろう。この差別対立心のなくなることが
感謝することのできる第一歩だ。君はどうしたらこの対立心や差別心がなくなるのかを聞きたいこと
だろう。話では教えられるが、やはりわからないだろうよ。とにかく実行がたいせつ、だ。理屈ぬきに
して、一如に見る心、平等に見る心、すべてのことに感謝する練習をしなさい。すべては宇宙の働き
(これを無限生命の働きというのだ)と知ることを悟りという。この働きに生かされていることに気づき
、それにまかせ従う心になって感謝する心がわいたときこれを信仰といい、この働き(神の心)
と自分の働き(心)をひとつにしようとする努力を宗教というのだ。この絶対心になったとき君の心
はいつも平静になるだろう。絶対心というのは、ひとつの心、すなわち無対立、無差別、無分別の心
だ」
話はわかるが、私にはますますわからなくなった。
「この平静心になったとき内から喜びが自然にわいてきて生きていることがうれしくてうれしくて仕
様がないようになり、またいっさいの縁が神からのお与えとして感謝できるように自然になるのだ。
この生き方のことをイスラムというのだ。この心境のことをイスラムではファーナ(消滅の意)仏教
ではニルパlナ(浬繋)、キリスト教ではアlメンと形容している。君は宗教を勉強したことがあるか
ね。そういっても、今の世界の宗教はどれもこれも純一無垢の姿を失っているけどね。パウロがいっ
ているね、H我生きるにあらず、キリスト(神の意)我にありて我生きるなりu この神に生かされ与え
られていることに気づくことだよ。日本にも親驚という偉い人がいたではないか、H いっさいはアミ
ダ(宇宙の意)のはからいだ。ここに自分のはからいを加えるな、ただ信じ任せて生きる以外にはな
いではないかu といっているのを君は知らないのか」
「神というのは特別のものではない。ただ、わからせるために、ゴッドとか、アッラ!とか、ブッダ
とか、アミダなどと形容しているだけで、この形容がわるかった。この形容の方便を信心の対象とす
るために各教各派の対立ができてしまったのだ。惜しいことだ。どの教えの信者でも、その無心の心
境において体験するものは平等観だ。いっさいの縁を修業(自己浄化高揚)のためのお与えと感ずる
ことだ。いっさいに感謝合掌する心こそ宗教の境地であり、天地の生命に通じて天地とひとつになっ
ている姿だ。君は神を遠くに求めるからわからないのだよ。ひたすら自分の心の内にそれを求めよ、
宇宙の働き、すなわち生命の働きだ。生命の働きとは何であるかと考えてみてもわかるものではない。
ひたすらに生きる努力をするのだ。ひたすらに生きるために、まず君の心の中のけがれ(対立差別感、
損得感)をとり去れ。心を浄化することが修行だ。私はいつ君と別れるかもしれないが、君に私の
悟ったことを教えてあげる。君は若い、生命をたいせつにして、世界人がほんとうに幸福になる働き
に生涯を捧げなさい」
この師の名は、アル・ホセイニーである。師は私にイスラムの話はもちろん、ゾロアスター教(拝
火教)、ユダヤ教、キリスト教、インドのヴェーダ、仏教、道徳等を毎日話して下さった。とくに行法
を身につけるには、ヨガをやれといわれた。
私もこれまでに少しは宗教の話を聞いてはいたが、ホセイニ1師の淡々たる話ほど私の胸を打った
ものはなかった。宗教への目、真理探求への心を聞かれたのはほんとうに師のおかげである。師は世
界の各宗教のもとはヴェーダ(インドの古代哲学)であるとして、その観点から各宗教々派の関連性
と帰一性を教えて下さった。師はインドで十年、ヨーロッパで五年、宗教を学んだといわれた。
「宗教は説明や思索や理屈ではない。真実のみを求め、真実のみを愛し、真実のみを行なうことであ
る。しかし、行なうということは一番むずかしい。行ない得る自分をつくることがヨガである。自分が真実を少しでも身につけ、それを行なうことができるようになったのは、ヨガのおかげである」
その頃までの私は、ヨガを苦行のための行法だと誤解していた。私はそのときまで一度も真の求道
心から宗教を求めたことはなかった。仏教の各派やキリスト教の各派に接したのも、この信と行のた
めの純粋な立場からではなく、常にその根底には、何々のためにという心をもっていたのであった。
無心、浄心になるためのものではなくて、その反対の欲心をみたすためのものであった。だから真実
がわらなかったのだと私はようやく気づいた。ラマ寺へ入ったのもこうして回教徒のふりをしている
のも、これこそ求道のためではなく、政策のためではないか・
今、ホセイニi師はどうしていらっしゃることであろうか。私は事あるたびに、その教えを思い出
すのである。
獄中における師の教えは二ヵ月つづいた。教えられたことは多かった。明日をも知らぬ立場の二人
ゆえ特に感銘することが多かったのであると思う。
アル・ホセイ二|師のことば
「坊や、ほんとうのことを知りたかったら、神とは何かなどと考えずに、無心に、静かに一人で祈り
なさい。私は毎日暇さえあれば、祈るか冥想するかしているだろう。しかし、私は何を求めているの
でもない。親なる神は求めなくてもすべてを知っていらっしゃる、私はただ感謝し、禍多き自分を詫
びているのだ、冥想は考えることではない。神を求めることでもない、力を得ょうとすることでもな
い、このいっさいをなげつくすことだ、冥想の行者釈迦がその秘訣を教えているではないか。悟ろう
とか、救われようなどと思って坐るなよ、放下するために坐るのである と。祈りと冥想は同一のも
のだ。イエスもマホメットも釈迦も自分のかぎりをつくしてどうにもならないときには、一人で山に
のがれ、神に知恵を与え給えと祈ったり、無心の冥想行を行なっている。これがヨガだ。このH無心
にH がむずかしいのだ。神に求めているから、求めているように見えるだろう、しかし違うのだ、イ
エスやマホメットはいつもHわが心を行なうためではない、神の御心をわが上になさせ給与えμ と祈つ
ているではないか」
「私も今までいろいろな事をやってきたが、これすべて私の力であったのではなくて、私のようなも
のの上にさえ神は知恵と力を常に与えてくださって、そうして、やらせていただいているのだと、こ
とごとくが限りなく喜べるようになったのは、五十歳を過ぎてからだったからな。君もやってごらん、
思案にあまったときには、次のようにね。“こんなとき、神はどう考えどうなさるであろうか”と祈り
もとめるか、無心に冥想するのだ。そうすると、その純粋性の程度のいかんに応じて知恵や能力がわ
きでてくるよ。私はこの年齢になるまで一度も地位や職についたことがない。いろいろの地位を与え
られたが私は断った。私は神の御用をなす人問、すなわち真実だけを求め、悟り、行なう人聞になろ
うと決心したからだ。私は、神が私を必要とし給う限り、きっと私を導き、助けて下さると信じている。事実、今日までがそうであった。この有難さを身にしみて感じるにつけ、誤りの多い自分をお詫
びせずにはおれない。私は正しいと信じることをいい、行なったために入牢している。私はもっと
もっと正しくならねばと決心しているよ」
「君は宗教を実行するといっても、何をどうしてよいのかよくわからないだろう。それはまず愛を実
行することだ。多くの人はこの愛を誤解している。世間でいう愛は功利的なものだ。ほんとうの愛と
は、無私の立場から自他がほんとうによくなること、ほんとうに生きることを願う心とその努力だ。
キリストはH汝の敵を愛せよH と教えている。釈迦はH憎しみに対するに愛もてせよH と教えている。
マホメットは端的にH 一切は友なり味方なりH と教えている。人生の一番の苦しみは、相互の対立で
ある。憎しみあうことだ。とくにこの苦しみは身近な間柄や、同志ほどひどいものだ。君にもこの問
題があるだろう。いや、すべての人がこの問題で苦しんでいるのだ。君は、これをどのようにして解
決するか、相手があやまってくるのを待っかね。それを期待していたら、死ぬまで和解はないだろう。
君の方からあやまっていくかね、これができたら相当高い心境だ。動物には憎しみの感情はあるが、
あやまるということはない、あやまれたら人間心に近づいたことだ。相手の救われと祝福を祈れるま
でになったら、最高の心の状態であり、これを神の心という。われわれは、よくH神の心を求めるH
というけれど、何も特別心を求めるのではなくて、人間としてもちうる最高心を求めているのだ。こ
の心は無私無心の心境からのみわき出るものである。無私無心の心には考えてなれるものではない、
知識を身につければいよというものでもない、その心境に達しうる唯一の道が、祈り(信仰)と冥想
(坐禅)である。このふたつは説明できない、これは知行を合一することによって次第に体得できて
いくものだ。ただ、ゃるのだ。理屈をこねているかぎり、できはしないだろう(そうだと思いつつ、
私はこの教えを受けてから十年間も本格的には実行する気にならなかったのである)。
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「この、祈り感謝できる心に、はじめて平和な心の光がかがやくのだ。お互いに言い分は山ほどある、
だから言い合いで解決することはできないだろう、まず祈りあうことだ、坐りあうことだ。無私無心
になって救われるのはまず自分だよ。釈迦もキリストもマホメットも、そむかれたり反対されたり、
いじめぬかれて、ずいぶん苦しめられたものだ。しかし、いっさい不平はいわなかった。ただ祈り、
拝み、感謝しておられた。この強く清く高い心こそ、真の幸、真の喜びにいたる唯一の道なのだよ。
君にほんとうの祈り、ほんとうの冥想を行なえる近道を教えてあげよう。まずH敵とか悪とかがあ
るμ と思う心から脱却することだ。その心を捨てるのだ。敵と見えるもの、苦しみに感じられるもの
こそ、われわれを鍛え、高め、気づかせてくれる恩人ではないか、だからいっさいの事をH神わざH
というのだ。釈迦の行なった冥想は、いっさいを神わざと自覚しての、法悦の冥想であった・::」
私は師の教えの真実をその後の体験によって次第に納得したのであったが、求道の正方向を暗示づ
けて下さったのはホセイニl師であった。私は質問することができなくなってただ黙って師の語られ
しかし、心の奥底から形容しがたい喜びがあふれで牢獄が牢獄でなくなって、
出してもらうことを願う心も忘れ去ってしまった。静かな、たのしい心境であった。
そんな私に精神統一と冥想のコツを味わう偶然のチャンスが次に与えられたのであった。
るままを聞いていた。
托鉢団に救われる
一ヵ月たったある夜半のことだった。騒音とともに銃声が聞こえてきた。私は夢うつつでこの音を
聞いていたが、師が私を起こして「同志が迎えに来たが、君も一緒に行くかね」とたずねた。私は考
える余地もなく「ハイ」と答えた。迎えの同志は約三十人ばかりの騎馬団であった。私には看守の馬
が与えられ、そこを脱出して、中部イランの古都イスパハlンに到着すると、師と私は近くのある托
鉢行者団にあずけられたのである。
この托鉢団はペルシャ語でダルウイlシュ(乞食行者の意味)と呼ばれており、遊行性をおびた自
由思想家の修道僧と思えばよいだろう。どうしてこういうグループができたかというと、あらゆる宗
教がその初期は純粋に求道的なものであったのが、いったん力を得た後は次第にその純粋性を失って
富と権力によってゆがめられていくものであるが、その求道の純粋性を願うものにとってこれは許さ
れないことである。イスラムにおいてもマホメットは神への帰一と平等性、同胞観、自由性、愛と奉
仕、形式の排除等を説いて開宗したのであったが、年月を経るに従って信者はその教えと逆の方向に
71 ダラーナとディヤーナについて
いってしまっているのは、キリスト教徒、仏教徒の現状と同様である。この教えへの逆行状態に反抗
して真の神を求め神聖国家の建設を目的とする自由思想家たちがいっさいの派閥を離れて集ったのが、
このグループである。彼等はその純粋性を保つために、社会生活および求財の生活から離れて出家托
鉢の生活に入り、神への無私従順の奉仕生活、自己欲のコントロールのための苦行、日々自己心浄化
のための餓悔と唱神と冥想行をその生活の信条としている。彼等は「清貧こそ最も楽し」と教えたマ
ホメットの言葉を信条として求財心を拒み、世間的享楽のいっさいの排除をなして、托鉢乞食の生活
を旨としているのである。托鉢乞食というのは、与えられたもののみを神の思し召しとして受けとっ
て生きるのが目的で、自欲と自己意志のいっさいを投げ捨てて、すべてを神より与えられたものとし
て有難く受けとり神の心にそのまま絶対に服従しようとするものである。入団の心構えを次のごとく
に明示している。
「与えられなかったら死ね」
「与えられないからと怒るな」
「与えられたからと諂うな」
「与えられたもののみを受けよ」
「いっさい不平をいうな、ただ感謝して受けよ」
彼等は乞食(托鉢)をして歩く、これは原始仏教徒に似ている。乞食をして歩いているからフア
キlル(乞食)あるいはダルウイlシュと呼んだのである。彼等は自分の努力によって神の声を直接
72
自分が聞こうとするものである。そのためにマホメットの行なった通りの真似をしようとするのであ
る。マホメットはヒラの洞窟での断食と冥想行法と神名の唱請の繰り返しによって啓示をうけたので
あった。この行法を行なっている彼等にはその性格において、三つの特徴、がある。
神以外を認めないので汎神主義者になりやすく、権力者、聖職者、民族主義者等に反対する。
この性格のために権力者からしばしば断圧されたので、秘密結社的な性格をもつにいたった。
禁欲、精神統て冥想を修行法の主たるものとしているので、その潜在能力が開発されて、こ
のグループの中には俗人から見て超自然的あるいは超生理的に見えるようなことを行ないうる者
が多いので、一般人は彼等を神秘視し畏敬して、スフイ(神秘家)とも呼んだ。
師に対しては絶対服従で、グループ意識が強く、師の命令のままに団体行動をしたので、畏れ
られていた。
彼等は自己自身の中に神を見ることによって解脱しようとするもので、グループの著名なものは約
三十あり、私の逃げ込んだのはジャラlリlヤ派と呼ばれ、中央アジアのボハラに発生したものであ
る。
グループの長(シェークH先達の意味)に入団を申し込んだ。この
グループに加われば托鉢修行者の姿で中央アジアでも新彊省でも巡礼の名のもとに自由に潜入できる
私は絶好のチャンスとばかり、
73 ダラーナとディヤーナについて
からである。しかし入団許可には三年間の試験があり、それにパスしなくては入団の許可はしない
74
という。その試験というのは||
一年間、他への奉仕行(他人をすべて主人とみなせという)と下座行(我の心、功利の心をの
ぞくために)だけを行なう。人を重んじ尊ぶことと、人にへりくだる心をもっていることは人間
同志のつきあいにおいて基本的にたいせつなことであるが、教えにおいては人を尊べてこそ、は
じめて神をも尊べるものとしているのである。なぜならば神がすべてのすべてである。すなわち
いっさいの現象はそのまま神の働きのあらわれとみなすからである。人や物を尊び重んじ、無私
の奉仕ができるようになったとき、次の段階の二年目に入る。ただしこの間一日でも一回でもこ
の心に反したことがあったら、その日から再び一年行なうのである。
次の一年は、ただ神への奉仕である。神への奉仕といっても偶像を拝んだりするのではない。
いっさいの事を神のお与え、神の働きとしてそのまま受け、そのまま感謝するのである。この行
は、自分の利を考えたためのいっさいのはからい心を捨て去るためである。この間、少しでも
H何々のために“の求め心や打算や好憎があってはならないとしている。むずかしいことだが、
少しでも不平や不安を抱いてはならないのである。いささかでも悪視感や消極心が生ずることを
許さないのである。なぜならば、この心が心を乱す因となるからである。いっさいを善とみ、善
と受けとり、はからい心なく(即ち無私で)素直にいっさいを神意なりと全受し、そのまま全托
できる不惑不動の心境になったとき、次の段階に進む。この一年間は心を浄化するのが目的であ
る
三年目は統一行法と冥想行法によって、ひたすらに心力の開発とコントロールをなすのである。
この一年間において無の心(空)を体得するのである。心の統一法には唱諦(神名を発声で請す
る)または念諦(心中で黙請する)を用いる。冥想法には調息や揺動体法を用いる。この一年間
は沈黙を厳守しなくてはならないのである。
彼等は自分で神(自己の内外の神、即ち真実) を自得することを目的としている。このために
は空の身体、空の心になるまではだめであり、神とのむすばれを邪魔するものが欲望と執着であ
るから、これをコントロールするための自分との闘い(行)が必要であるとしている。彼等には、
苦しみはそれ自体としては存在しないものである。悪があるから生ずるのだ、だから苦しみを自
己浄化剤として活用せよと教えている。彼等は、沈黙行、無私奉仕行、徹底祈念、冥想行法を繰
り返している。自我を殺して、神に生きるためである。
彼等の教理はいちいちその通りだと思うが、その墳の私は信仰のために入団を希望したのでもない
し、否、神とか信仰とかがわからないだけでなく、否定的であったという方がほんとうである。だか
ら、心からやってみる気は起こらなかったが、このグループに入るのが一番容易な中央アジア潜入法
なので、次の申出をした。
75 ダラーナとディヤーナについて
「私は一日でも早く入団したい。一ヶ月で試験してくれ、もし一ヶ月でだめなら= 一年やってもむだだ
76
と思う」
(先達)が笑いながら、
お前は見込みがある。日本人の入団ははじめてのことだから、
ろ」といってくれた。
するとシェーク
「よし、日本人を代表してやってみ
入団試験とその苦行
まず十日間、睡眠は三時間にして、唱請をつづけるように命じられた。バカバカしいと思ったが仕
方がない。
「アッラホアクパル
「ライラハイッラッラ
を繰り返すのである。これには唱え方がある。心の統一のために呼吸をあわせるのである。
アクパル」のとき初めは右膝に力をいれ、つぎには左膝に力をいれる。「ライラハ」で息
で息を吸うのである。できるだけ静かにゆっくり。
「アッラホ
を吐き「イッラッラ」
は頭から声をだすつもり
で、「イッラッラ」は両足から声をだす気持ちになるのである。同時に身体を前後または左右にリズミ
あるいは「ライラハ」
の
ーー「
フ
L一
はへそから声をだすつもりで、「イラハ」
カルにふるのである。しかも一点を凝視しながら。これを精神統一法(テウヒIド)といっている。
私はほんとうに無我夢中でやった。バカバカしいが、やらざるを得ないのだ。しかし、やっている
うちにほんとうに無我境(ハlレットという)に入ってしまった。あるいは忘我境かもわからない。
つぎの五日聞はシェークの監視下に冥想行法(坐禅)である。
そのつぎの五日間は、シェークが目隠しをしては取り去り、自分の顔を凝視させて、また目隠しを
なし、またそれを取り去ることを繰り返し、シェークの顔が心眼にはっきりうつるまでやるのである。
彼等の中にはいろいろな苦行的唱え方をしている人がいた。頭髪を天井から垂らした綱にくくった
り身体をまげて膝と首をくくったりして眠気をふせいだりしている。たいてい十二日間は断食し、な
かには四十日間もしている人がいた。私はとにかく夢中で、一ヶ月の断食をした。
いよいよ最後の十日間は試験である。ほんとうに無我境に入っているか否かを、焼ゴテを身体にあ
てたり、刀で身体をっきざしたりして調べるのである。困ったことになったと思ったが、いまさら仕
方がない。ままよ他の者にできて俺にできないこともあるまい、死ぬつもりでやってみようと決心し
てみたが、無我になれるのか、ほんとうに無我になったら痛くも熱くもないのかが不安で不安でなら
なかった。しかし受けないわけにはいかない。とにかく、やる決心をしたのであった。
(昭和お年9月頃の著作)
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